トップ野球少年の郷第19回
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第二章 墨谷高等学校 谷口一年生編(プレイボール 一〜七巻)−3

A墨谷高×城東高(東京大会二回戦)球場=駒沢球場

 墨谷 21? ??? ?=?
 城東 00? ??? ?=? (墨谷の七回コールド勝ち)
  勝=中山 負=松下 本=谷口(藤井)

 墨高はバウンドとはいえ投げられるようになった谷口を古巣のサード、そして四番打者として起用した。野球では名の通っている城東は墨高を侮り、谷口とは墨谷二中時代のチームメイトだった一年生の控え投手・松下を先発させた。しかし谷口には松下では通用しないことがわかり、エースの藤井をリリーフに送った。
 しかし谷口は藤井から先制2ラン。守備でも谷口の美技はもちろん、他のナインも好守備で城東の攻撃を無得点に抑えた。谷口のバウンド送球を捕球する練習が、結果的に墨高の守備力を高めたのだ。
 墨高のレベルアップに城東はまだ気付かず頭から舐めきっていたが、逆に負け犬根性だった墨高ナインには少しずつ自信が生まれ始め、結局、墨高が城東を七回コールドで完勝した。

 〈検証〉松下との再会

 谷口と田所は二回戦で対戦する城東の偵察に出かける。偵察と言っても、田所と城東のキャプテンは中学の時からの親友だから、墨谷二中が青葉学院を偵察した時のように堂々と見に行った(プ二巻一九〇頁)。
 城東の練習場で谷口は墨谷二中のチームメイトだった松下と再会する。しかも松下は「よう谷口」とタメ口なのだ(プ二巻一九三頁)。いや、同学年なのだからタメ口なのは当たり前なのだが、中学時代は松下は谷口に対して常に敬語を使っていた。松下だけではない。同学年の小山や浅間も谷口に対しては敬語だった。
 また、中学二年の時は丸井とタメ口で話していた加藤や高木も、三年になって丸井がキャプテンに就任すると途端に敬語で接するようになった。
 普通の運動部ではキャプテンであるなしに関わらず、同学年に対してはタメ口で話す。墨谷二中ではたとえ同学年でもキャプテンに対しては敬語で話すという奇妙な習慣があるのだろうか。
 実はこの傾向は墨高にもあり、キャプテンの田所に対して他の三年生はみな敬語で話している(松本だけはときどきタメ口になる)。野球部だけでなくサッカー部でも、キャプテンの相木に対して明らかに同学年と思われる今野は敬語を使っている。ちなみに今野は、田所に対してはタメ口だ(プ八巻三二頁)。
 墨谷二中のこの奇妙な風習はイガラシの代でやや弱まり、キャプテンのイガラシに対して同学年の小室や久保は敬語になったりタメ口になったりしている。そして近藤の代では全く無くなり、牧野や曽根、佐藤は近藤に対して終始タメ口だ。墨高では谷口が一年生でキャプテンになった時点でこの風習は無くなっている。
 話を松下に戻そう。城東の野球部に入部した松下は、谷口にとって墨高入学後初めて墨谷二中出身者と再会した選手だった。

 ところで、墨谷二中の選手は誰も墨高に進学しなかったのだろうか。当時の東京都立高校は学区制を敷いていたので、同じ地区にある墨高に進学していた者は多かったはずである。でも実際に墨高野球部にいるのは谷口だけだ。他の選手は墨高には行かなかったのだろうか。
 もっとも、墨谷二中のレギュラーで谷口と同学年だったのは、松下以外では小山、浅間の二名だけだったので、谷口しか墨高に進んでいたとしても不思議ではない。補欠で墨高に進学した者もいたのかもしれないが、野球部には入部しなかったのだろう。

 さて、松下が入学した城東とはどんな高校なのだろうか。東京大会ではシード校は三回戦から登場するので、二回戦で対戦する城東はシード校ではない。しかし、田所によると城東は「野球で名のとおっている」らしく(プ二巻一九四頁)、「京成高とはわけがちがう」らしいので(プ三巻一五頁)、かつてはシードされた可能性が高い。バッティング投手までいるので(プ三巻五一頁)、この年は運悪くシードされなかっただけかもしれない。
 となると、中学時代はスローボールしか投げられなかった松下はせいぜいバッティング投手か、野手転向を余儀されると思われるが、ドッコイ、なんと背番号11を付けて堂々とベンチ入りしているのだ。さらに、この墨高戦では先発登板をしている(プ三巻一一頁)。もっとも、先発の理由は、一年生を慣らすのは墨高のような弱い相手のときしかないというものだが(プ三巻一二頁)、それでもバッティング投手がいるようなチームで、一年生で投手としてベンチ入りするのは並大抵なことではない。高校野球で背番号11といえば、背番号1と10に次ぐ三番手の投手であることが多い。

 そしてその球は中学時代とは比べ物にならないほど速い球を投げている(プ三巻一七頁)。城東のキャプテンも「球威もコントロールも悪かぁねぇんだ」と松下の球を認めている(プ三巻三一頁)。
 では、なにが松下を投手として成長させたのか?
 それは中学時代、青葉学院戦で負傷した肩が関係しているのではないか。プロの投手でも、学生時代に肩を壊して投げられなくなり、やむなく走り込みばかりしていて、肩が治って投球してみると自分でも驚くほど球が速くなっていたと述懐する選手は多い。松下も投げられない間は徹底して走り込んだのではないか。そして肩が治って投げてみたところ、かつての自分では考えられないほどのスピードボールが投げられるようになったのかもしれない。そして自信をつけ、野球の強い城東を選んだとも考えられる。
 だがそれでも、墨高の一、二番は連続三振にしとめたが谷口には通用せず、マウンドをエースの藤井に譲っている(プ三巻三五頁)。

 翌年、かなり強くなった墨高との練習試合で松下が先発しているが、墨高打線につかまり早々とノックアウトされた(プ一一巻七一頁)。中学時代より急成長したといっても、高校の上のレベルまでに達するのは難しかったと思われる。
 ところで、松下は意外なところでキャプテンから期待されている。
 なんとこの墨谷戦で先発の四番を任されているのだ。一回表で降板したため実際には打席に立つことはなかったが、二回裏に四番打者として打席に立っているのはリリーフしたエースの藤井である(プ三巻六九頁)。それとも、藤井の登板を予定した上での松下の四番起用だったのだろうか。
 実は藤井はまだ二年生で、やはり翌年の墨高との練習試合に登板し、メッタ打ちにあった。
 この年ではまだ城東の方が総合力で墨高を大きく凌いでいたが、墨高を頭から舐めきっていたことが災いして、七回コールドで敗退した(プ三巻八四頁)。
 実はこの試合、墨高も二回までに五安打を放ち、相手が三エラーするも(プ三巻八〇頁)、三点(内、二点は谷口が死球による走者を置いての2ラン)しか取れないという信じられない拙攻ぶりだった……。

 〈検証〉谷口の背番号

 一回戦の京成戦でバウンド送球を見せた谷口は、二回戦の城東戦で四番・サードに抜擢される。そしてこの試合では、背番号5を着けているのだ。
 ちょっと待って欲しい。高校野球での背番号というのは大会前に登録して、その大会が終わるまでは変えることはできないのだ。この場合は、東京大会が終わるまでは背番号を変えることはできない。ただし、仮に墨高が優勝すれば、甲子園大会では東京大会とは異なる背番号を着けることはできる。このあたり、第一章でベンチ入り人数に関して述べたが、『キャプテン』『プレイボール』世界ではどうもあやふやなようで……。

 ところで、谷口は一回戦では14番を着けていたが、5番を着けていたのは山口で、やはりサードを守っていた。山口は二回戦では7番を着けており、レフトを守った。
 では、一回戦で7番を着けていたのは?実は名もない選手だが、四番を打っていた(プ二巻三七頁)。しかし二回戦以降は一切登場していない。ひょっとして、一年生の谷口に四番の座を獲られたので、ショックのあまり退部したのかもしれない。
 墨谷二中では谷口卒業後、丸井の代では名もない選手が背番号5を着けている。背番号1のイガラシがピッチャーの時、この選手がサードを守っているが、背番号11の近藤がピッチャーの時はイガラシがサードを守るため、この選手は登場しない。そのせいか、名前すら付かなかったのだろうか。青葉との試合前、控室で選手たちが輪になって弁当を食べるシーンがあるが、この選手はその中にいなかった(キ八巻五三頁)。
 さらにイガラシの代になると、背番号5の選手すら見当たらない。背番号11の近藤がピッチャーの時はやはり背番号1のイガラシがサードを守っているが、イガラシが投手の時は、普段はライトを守っている背番号9の松尾がサードだ。

 つまり背番号5は欠番になっていて、ひょっとすると「背番号5は谷口の番号」とイガラシが永久欠番にしようとしていたのかもしれない。丸井は二言目には「谷口さん」を連発して周囲を呆れさせていたが、案外イガラシの方が谷口を尊敬していたのかも。
 墨谷二中では背番号5は、谷口を知らない近藤の代で復活、皮肉にもイガラシの弟・慎二が着けた。
 墨高では谷口が一、二年生の時に背番号5を着けているが、三年生になると自らは1を着け、5は松川に譲っている。

 谷口には背番号5に対する思い入れはさほど無いようだ。

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