トップ野球少年の郷第59回
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第五章 墨谷第二中学校 イガラシキャプテン編(キャプテン 九〜二二巻)−2

〈検証〉墨二、選抜大会出場を棄権

 毎朝新聞の記事が墨二野球部員の父兄たちの間で問題となった。もちろん「優勝候補bP」と書かれたことが問題になったのではない。「強行スケジュール、ケガ人続出」の部分の記事が問題になったのである。記事には、一〇時間の練習内容が書かれていた(キ一一巻八八頁)。

 この記事を読んだ人たちから、墨谷二中の吉岡校長の元に抗議の電話が殺到した(キ一一巻八六頁)。いつの時代にも、新聞記事やテレビを見てわざわざ抗議の電話をしたがる人は多い。毎朝新聞の記者も罪なことをしたもんだ。だが、こんな記事で抗議の電話が殺到するところを見ると、墨谷地区での毎朝新聞の購読率は相当高いのではないか。

 墨谷二中の会議室には吉岡校長をはじめ、近藤の父、松尾の母を含む一〇名の野球部員の父兄たちが集まった(キ一一巻八三頁)。顔を見るとほとんどがレギュラーの父兄と思われる。笑ってしまうほど選手たちとそっくりだ。ただし、正体不明の父兄が一人いる。メガネをかけた、いちばん金持ちそうな紳士だ。

 そして、イガラシの親はなぜか来ていない。平日の三時頃と思われるから、中華ソバ屋ならいちばんヒマな時間帯だと思われるのに。少なくとも夫婦のどちらかは来られそうだ。
 それに、一〇人中、女性は松尾の母と久保(と思われる)の母の二人だけで、あとの八人は男性だ。近藤の父は社長なので時間の自由が利くだろうが、他はサラリーマン風の人が多い。会社を抜け出して来たのだろうか。
 もしかすると、この日は土曜日だった可能性もある。当時の学校は、土曜日は午前中のみの授業だったし、会社も半ドン(半日休暇)にしているところも結構多かった。そう考えると、イガラシの両親が来られない理由もわかる。土曜日の放課後なら、集合時間も昼過ぎだろうし、ソバ屋にとっては書き入れ時だ。

 さて、会議の方は、特訓を即刻やめさせようとする松尾の母と、やめさせまいとする近藤の父の意見で真っ二つに分かれた(キ一一巻九一頁)。野球を知らない松尾の母と、ノンプロ(しつこいようだが、社会人野球のこと)をやっていた近藤の父(キ一一巻九二頁)では、意見が分かれるのは当然であった。

 そこで吉岡校長が、野球部員の気持ちを聞いてみては?と提案し、近藤の父をはじめ他の父兄のほとんどがこの意見に賛成したが、松尾の母だけは反対した(キ一一巻九四頁)。松尾の母は、物事を判断できない子供相手なのだから大人が指導すべきだ、と主張した(キ一一巻九五頁)。やれやれ、こんな母親が日本に蔓延したから、物事を自分で判断できない人間を量産したのだ。それはともかく、吉岡校長は妥協案としてキャプテンのイガラシを代表者として呼んではどうかと提案し、さすがに松尾の母もこの案を受け入れた(キ一一巻九七頁)。

 ここで問題なのが、呼ばれたのがイガラシだけで、責任教師は呼ばれていないのだ。もちろん、初めから会議に参加していたわけでもない。第一章でも少し触れたが、墨二野球部に監督がいないことはよく知られている。だが、部長や顧問の先生がいないとは、中学の部活としては考えにくい。事故が起こったとき、生徒であるキャプテンに責任を取らせるのであろうか。

 責任教師がいないとすれば、墨二野球部は同好会形式だったのだろうか。だとすれば、部費は当然もらえないだろうし、部員の負担が重過ぎる。なによりも、学校の敷地内に野球部の専用グラウンドがあるではないか。たかが同好会に対して、学校側がこれだけ優遇するとはとても思えない。
 話はちょっと逸れるが、社会人ラグビーの強豪・神戸製鋼のラグビー部が日本選手権七連覇をしていた頃、実は同好会形式で運営されていた。ただし、これは学校における同好会とは異なり、会社からの援助は受けていた。つまり、実業団スポーツによくある、スポーツだけが目的の契約社員ではなく、神戸製鋼ラグビー部員はみんな一般社員だったということだ。契約社員の場合は会社での仕事はあまりせず練習に明け暮れていることが多いが、神戸製鋼ラグビー部員は就業時間の仕事をこなしてから練習をしていた。
 当時の神戸製鋼ラグビー部には監督がいなくて、キャプテンが中心になって運営しているという、いわば『キャプテン』世界に近いものだったが、部長はちゃんと存在した。なお、トップリーグが発足した現在は、このような形式はとっていない。

 話を元に戻すと、墨二野球部は正式な部として認められていたはずだし、当然、責任教師もいたはずだが、この会議の場にはいなかった。こんな重要な会議に責任教師が欠席するとは考えられないが、この会議自体が緊急に行われたものであり、この日はたまたま責任教師が欠勤していたとしか考えられない。つまり、責任教師が不在だったため、校長先生が全責任を負う形になったわけだ。
 吉岡校長に呼ばれたイガラシは、会議室に行くまでに特訓の現況を説明した。記事の内容は一〇日前の出来事で、当時はケガ人も多かったが現在はほとんどケガ人のいないこと(キ一一巻一〇七頁)、また授業には差し支えないようにスケジュールを組んでいると言った(キ一一巻一〇八頁)。
 よく言うよ、午前五時〜午後一〇時までずっと縛られているんだぜ。つまり、家にいる時間は最高で七時間。しかもこの内には通学、食事、入浴時間が一切含まれていない。これらを全て合わせて二時間としても、残りは五時間。激しい練習で疲れていては、睡眠時間が五時間ではとても足りないだろう。こんな時間では勉強はおろか、宿題だってできやしない。
 吉岡校長は「ひとつのことを一時間でできるものもいれば、二、三時間かかるものもいるのさ」と諭している(キ一一巻一〇八頁)。さすがに校長先生だけあって、見事な正論を吐く。
 イガラシはいわゆる天才肌の人間だ。それゆえ普通の人の感覚が理解できず、そんな人が人の上に立ったとき下の者に無理な要求をして失敗するケースが多々ある。自分ができたのだから、他の者もできるだろうと考えてしまう。そしてできないものに対して、アイツは怠け者だ、というレッテルを貼ってしまうのである。イガラシのクールさ、少数精鋭主義はそんなところから来ているのかも知れない。
 選抜のレギュラーのテストをしたとき、落ちた者に対して、これからの練習はレギュラー組の邪魔にならないようにしてくれ、と言ったことに対して(キ一〇巻九八頁)、ナインはイガラシの冷たさに憤りを感じ、小室は「前キャプテンの丸井さんだったら、おちたものにああまでいわなかったろうよ」と言っていた。これに対し弟の慎二は「かれは勝つという目的のためにはなんでも犠牲にするところがあるんですよ」と言っている(キ一〇巻一〇〇ページ)。

 ちばあきお先生が描いた『半ちゃん』にもイガラシという少年が登場すると以前に書いたが、このイガラシは典型的な勝利至上主義者だった。たかが少年草野球の練習最中でも絶対に水を飲ませないほどだ。
 そういえば墨二のイガラシも、うさぎ跳びという非科学的な練習をナインに課していた(キ一〇巻一七二頁)。まあでも、練習中の水分補給禁止も、うさぎ跳びも、当時の練習では当たり前のことだったが。
 ただイガラシも、ナインに対して配慮が無いわけではない。学年が進むにつれて人間的にも成長してきたし、キャプテンとしての責任感もちゃんと持っている。ただ、天才にありがちの、能力の無い部員のことを理解できないので配慮の仕方がわからないだけだ。

 会議に加わったイガラシに対し、最初に質問したのはやはり松尾の母だった。松尾の母は、なぜ息子をレギュラーから外したのか訊いた。イガラシは、練習についてこれなかったのでレギュラーから外したが、今ではレギュラーに復帰した、と答えた(キ一一巻一一三頁)。しかし松尾の母にとっては初耳だった。

 ここでちょっと注目したいのは、松尾の母がまず訊いたのは、特訓内容のことではなく、息子をなぜレギュラーから外したのか、ということだった。どうやら松尾の母は、息子がレギュラーから外されたのは、息子に特別扱いを要求した腹いせからだ、と思っていたフシがある(キ一一巻九〇頁)。つまり松尾の母は、野球よりも学業を優先すべきだと主張しながら、我が息子のレギュラー入りを望んでいたと思われる。そう考えると、松尾の母はガチガチの教育ママではないようだ。

 しかし今度は、息子がレギュラーに返り咲いたのは塾をサボって一人で練習していたと思い込み(キ一一巻一一五頁)、今度は息子をレギュラーから降ろさせてもらう、と宣言する(キ一一巻一二〇頁)。塾をサボって練習していたのはおそらく本当だろうが、そんなことはイガラシにとって知ったこっちゃないことだ。しかも、さっきまでレギュラーから外されたことを抗議していたのに、今度は自分の意見が通らないからレギュラーを降ろさせていただく、というのはいささか論理性に欠いた発言といえる。どうして女性というのは論理よりも感情が優先してしまうのだろう。おっと、こんなことを書くとヤバイ。

 それに、イガラシのやり方が納得できないのならば「レギュラーから降ろさせていただく」のではなく「退部させる」でいいではないか。当然、息子は反発するだろうが、レギュラーになれない野球部にいたところで存在意義は無い。それでも「退部させる」と言わないのは、やはり松尾の母は息子に野球をやってもらいたいのだろう。松尾の母にとって文武両道が理想なのかも知れない。つまり、今のままでは息子を使ってもらいたくないが、やり方を改めるのであればぜひ使ってちょうだい、というわけだ。そう考えると松尾の母のことも少しは理解できる。
 ところがそんな時、一年生の山下が会議室に飛び込んできた。山下が素振りをしていたとき、すっぽ抜けてバットが松尾に当たったというのだ(キ一一巻一二三頁)。それを聞いた松尾の母は気を失ってしまう(キ一一巻一二四頁)。山下のバットは松尾の額を直撃し、血を流していたが意識はハッキリしていた(キ一一巻一二七頁)。松尾は例の、誰の父親かわからない紳士の車で病院に連れて行かれた(キ一一巻一三四頁)。

 この事故を受けて吉岡校長はイガラシに、選抜を棄権したらどうかと進言し(キ一一巻一三一頁)、イガラシもそれを了承する(キ一一巻一三二頁)。しかしこんな重要な事柄を簡単に即決してもいいのだろうか。吉岡校長は、大泣きした山下を慮って決断したのだが(キ一一巻一三〇頁)、この事故が理由で棄権したとなれば、山下の心の負担はもっと大きなものになるだろう。自分が棄権の原因を作ったのだから。

 そもそもこの事故の原因は、特訓の厳しさにあったのだろうか。バットがすっぽ抜けただけなのだから、特訓の厳しさとは直接は関係がない。ただし、事故が起こる原因の大半は、疲れているか、気が緩んでいるかによることが多い。つまり、厳しすぎる特訓が原因と言えなくもない。ただ、偶然だとすれば、実にタイミングの悪い時に起きた事故だとも言える。

 かくして、墨二は前年夏に続いて、二大会連続で極めて異例な形での全国大会棄権となった。現実の高校野球では「辞退」という言葉を使うが、『キャプテン』世界では「棄権」と呼んでいるようだ。たしかに「辞退」と言うと不祥事を連想するため、あんまりいい印象はない。
 優勝候補筆頭の墨二が出場しなかった選抜大会は、「西の雄」こと和合が青葉を四―一で破って優勝した。青葉の四年連続選抜優勝はならなかった(キ一一巻一四四頁)。
 青葉の出場は墨二の代打出場ではなかったことは、墨二を棄権に追い込んだ毎朝新聞の紙面からわかる。小見出しには「青葉、攻撃……」と書いてあった(キ一一巻七〇頁)。

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