トップオフサイドライン第1回
    

プロローグ

 5月24日、陽光降り注ぐ東京・秩父宮ラグビー場の芝生の上に男は立っていた。

 ラグビーをするにはやや暑い季節だ。芝生は陽炎のために揺れているように見える。
 梅雨入り前の秩父宮では、ラグビーワールドカップアジア予選の最終戦、日本×中華台北(台湾)の試合が
行われようとしていた。
 男が身に纏っているのはジャパンの赤白・桜のジャージー。背番号9である。背番号9といえば、スクラム
ハーフのポジションだ。

 ワールドカップ出場を賭けた最終戦、この試合に勝てば出場権を得ることができるだけに、選手全員に緊張
感がみなぎっていた。

 中でも、背番号9の男は他にも増して緊張していた。
 なにしろ、27歳になったばかりの男にとって、この試合が初キャップ試合だったのである。
 男の身長は167cm、体重は69kg。
 ラグビー選手としては小さな体ではあるが、日本のスクラムハーフの選手としては平均的な体格だ。大きな
体というイメージの強いラグビー選手の中で、唯一小さな体でもその能力を遺憾なく発揮できるポジションが
スクラムハーフである。
 キックオフの笛が鳴った。

 ジャパンのスタンドオフ・遠藤のドロップキックで試合が始まった。
 ジャパンの選手たちと共に、男は楕円球に向かって一目散に飛び出した。
 すぐに密集状態となり、男はモールの最後方について、平均身長190cm、平均体重100kgのフォワード
8人の大男たちを巧みに操った。

 ケンカとブチかましが三度のメシより好きなドでかいフォワードの荒くれどもも、スクラムハーフの小男の
指示には簡単に従ってしまうのが、ラグビーというスポーツの面白いところだ。
 背番号9の桜のジャージーを身に纏った小男は、試合前の緊張を忘れ、キックオフの瞬間から秩父宮の芝生
の上を縦横無尽に走り回った。
 そしてこの試合が、男にとっての引退試合となった。
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