トップオフサイドライン第2回
    



「これからどうするの?」
「どうするって?」
「就職よ、就職」
「あ、ああ……」
 渋谷の喫茶店で、野島は口ごもって答えた。
 珠美に詰問されるのは苦手だ。なにしろ珠美の身長は170cmで、野島よりも3cmも高い。言い詰められると威圧感があって、参ってしまう。まだ今は喫茶店の中でお互い座っているのでマシだが、歩いていると男としての威厳のカケラもない。珠美の隣りにいる男がラグビー選手だとは誰も思いもしないだろう。
「私だってもう東京での就職が決まってるんだからね。両親にだって、信也くんのことを話してるんだから。こっちで就職できないの?」
「できないことはないけどさあ。首都圏で誘ってくれる会社がないんだよ」
「なんだ、結局ダメ学生じゃん」
「違うよ。求人はあるけど、関東の企業でラグビー部があるところがないってこと」
「別にラグビーにこだわらなくてもいいじゃん。どうせ見込みがあるわけでもないし」
「どうせ、って言うなよ」
 野島は少しムッとした。珠美は時々、ミもフタもない言い方をするのだ。

 野島は関東経済大学ラグビー部の四年生。一応はスクラムハーフのレギュラーだ。
 関東の大学ラグビーは早慶明の伝統校を中心とした対抗戦グループと、法大などで構成されているリーグ戦グループに分かれている。関経大は伝統校が集う対抗戦グループに所属しており、野島が入学したときはまだBグループ(二部)だった。だが三年生の時にはAグループ(一部)に昇格して5位に食い込み、全国大学選手権にも出場した。残念ながら、野島がレギュラーになった四年生の時は6位に終わり、大学選手権には出場できなかったが……。

「でも結局は、ラグビー部のある会社からは誘われなかったんでしょ」
「そんなことないよ。ちゃんと誘われているさ」
「じゃあ、そこに行けばいいじゃない」
「行ってもいいのか?」
「どういう意味?ヘンな会社なの?」
「ヘンな会社じゃないけどさ。近江工業って会社だよ」
 珠美は近江工業なんて会社は聞いたことがなかったが、社名からどこに所在する会社なのかぐらいはわかる。
「近江って……、まさか滋賀県?」
「そうだよ。残念ながら近江工業には東京支社は無いから、入社をOKすれば即、滋賀行きだな」
「なんであなたが滋賀くんだりまで行かなくちゃならないの?琵琶湖の上で水上ラグビーでもするつもり?」
 珠美が憤慨する気持ちもわかる。東京生まれの東京育ち、東京の大学を卒業した男がなぜわざわざ滋賀県まで行かなくてはならないのか。東京人にとっての滋賀県なんて、琵琶湖以外になんのイメージも湧かない。せいぜい競馬好きが「栗東に行きたい!」などとダダをこねるくらいだ。
「近江工業は最近ラグビーに力を入れていて、熱心に俺を誘ってくれるんだよ」
「へーえ。信也くんがそんな凄い選手だったとはね。だったら、関東の企業だって熱心に誘ってくれるんじゃない?」
「……」
 相変わらず珠美はミもフタもない言い方をする。関東のラグビー部を持つ有力企業は早慶明を中心にリクルートするので、関経大はあまり相手にされていないのだ。
「なんで滋賀に行ってまでラグビーを続けたいの?ラグビーなら高校、大学だ散々やったじゃない」
「……ジャパンだよ」
「ジャパン?」
「日本代表のことさ」
「日本代表って……、信也くんが選ばれたの?」
「そうじゃないよ。ウチの監督に言われたんだ。お前なら社会人でラグビーを続けたら、ジャパンに選ばれる可能性があるって」
「ふーん、凄いじゃない。でも、その近江工業っていう会社、トップリーグなの?」
「いや、今はまだトップウエストだけど、トップリーグに昇格するチャンスはあるよ」
「でも、トップリーグの選手じゃなければ、信也くんが日本代表に選ばれるチャンスも少ないんじゃない?」

 珠美という女は、ラグビーには詳しくなくても、実に痛いところを突いてくる。珠美と付き合い始めたのは大学二年のとき。その頃の珠美はラグビーには全く興味がなかった。しかし野島と付き合い始めてからは、それなりにラグビーの知識も知るようになったようだ。そしてラグビーの世界は、本格的なプロがある野球やサッカーに比べて、それだけで生きていくには遥かに厳しいということも……。

 日本のラグビーにはトップリーグというのがあって、それがもっともレベルが高いリーグだ。サッカーでいえば、J1のようなものである。その下部組織が東日本のトップイースト、関西のトップウエスト、西日本から九州にかけてのトップキュウシュウに分かれる。この三地区の中から上位チームが、トップリーグとの入れ替えが行われる。

「近江工業がトップリーグに昇格すればジャパンに選ばれるチャンスもある。トップリーグともなれば、ジャパンの首脳陣にアピールしやすいからね」
「でもさ、日本代表に選ばれたからってどうなるの?プロ野球選手みたいに高い年俸を貰えるわけではないし、生活が安定するわけでもないでしょ?」
 ……この女は、ときどき心臓をえぐるようなことを言うが、それはまっこと正しいのだ。
 そう、ラグビーの日本代表に選ばれたところでなんの見返りもないし、生活の保障をしてくれるわけでもない。
 それでも、一度でも楕円球を持ったことがある男にとっては、ジャパンの桜のジャージーは何物にも代え難い宝石だ。
 たとえ滋賀に行こうが屋久島に行こうが、チャンスがあればそれに賭けたい。
「とにかく三年間、待って欲しい。三年たってジャパンに選ばれればラグビーを辞める」
「じゃあ、三年間で日本代表に選ばれれば東京に帰ってきてくれるのね。でも、選ばれなかったら永久に帰ってこないってこと?」

 珠美はいつも、返事に困るような質問をしてくる。だがその質問は、常に物事の核心を突いていた。
「そのときは……、もう一年チャンスが欲しい。ラグビーを始めた以上、桜のジャージーを着てみたい。それでダメなら、潔くラグビーは辞めて、東京に帰ってくる」
「ってことは、四年ってわけね。四年も待たせるんだから、絶対に浮気はしないでね」
「もちろんだ。そのかわり、お前も浮気はするなよ」
「冗談でしょう。四年も待たせるんだから、私の恋愛は自由よ」
「そんなことをしたら、お前にタックルするからな」
「どうぞご自由に。信也くんのタックルごとき、私なら簡単にかわせるもの」
 身長で野島を3cm上回る、珠美の力強い言葉だった。
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