トップオフサイドライン第8回 



「お帰り、信也くん。真っ黒に日焼けしたね」
「あ、ああ。バンコクは日差しが強かったからな」
「ずいぶん男っぽくなった」
「今までは女っぽかったのかよ」
「ふふっ。そんな物言いは、まだまだ子供ね」
 珠美はくすくす笑った。そんな笑う表情や、ひとつひとつの仕草が、珠美がより大人の女性になったなと、野
島は感じていた。
「子供なんて言うなよ。こう見えても一応はジャパンの戦士なんだぞ」
「そうだったわね。桜のジャージーを着た信也くんはさぞかし男らしかったんだろうね。見てみたかったなあ」
「ふん、心にも無いことを言いやがって」
 野島のトップリーグでのプレーぶりが日本代表首脳陣の目に留まり、二年に一度行われるアジア大会の代表メ
ンバーに選ばれたのだ。
 この大会はワールドカップには直結しないとはいえ、日本代表としてプレーすることには違いない。
「そんなことないよ。信也くん、言ってたもんね。社会人になってから三年で日本代表に選ばれるって。私も三
年待った甲斐があったわ」
「まあそうだな。これで一つの目標はクリアできたわけだ」
「一つの目標?日本代表に選ばれることが、信也くんの最大の目標じゃなかったの?」
「……まだキャップを得ていない」
「キャップ?」
「日本代表として、テストマッチに出場した者だけに与えられる称号だよ。俺はまだ、キャップを手にしてはい
ない」
「どうして?アジア大会では二試合も出場したんでしょ?なんでそのキャップとかいう物がもらえないの?」
「俺が出た二試合は、キャップ対象試合じゃなかったからさ」
「キャップ対象試合?なによそれ」
「俺も知らなかったんだ。ジャパンの選手として試合出場すれば、キャップをもらえると思ってた。でも、俺が
出場した二試合はいずれもキャップ対象外だった」

 ラグビーでは、国の代表チーム同士の試合をテストマッチと呼ぶ。もちろん、ワールドカップでの試合もテス
トマッチだ。そのテストマッチに出場した選手はキャップ(帽子)という称号を得る。このキャップこそが、ラ
グビーマンにとって最大の勲章である。
 このテストマッチの扱い方は、各国のラグビー協会によって違う。日本協会の場合、このバンコクで行われた
アジア大会については、決勝戦のみをテストマッチとして認め、予選リーグはキャップ対象外としていた。
 野島が出場した二試合はいずれも予選リーグでの試合だったので、キャップは与えられていなかった。

「それでもいいじゃない。日本代表のジャージーも着られたんだから。もう東京に戻ってきてよ」
 珠美は泣きそうな顔になった。そこには大人の女性になった表情はなかった。ただ、野島にすがりつきたい、
これ以上は待てないという懇願だけだった。
「……俺にはあと一年のアドバンテージがあったはずだよ」
「アドバンテージ?」
「最初は三年って言ってたけど、すぐに四年と言い直しただろ?つまり、俺にはまだ一年、執行猶予があるわけ
だ。お前も三年前、それを了承していた」
「キャップなんて話、聞いてないよ。そんな言葉、私は知らないし。第一、信也くんは望みどおり日本代表に選
ばれたんだし、そんなの反則じゃん。ラグビー選手は反則しちゃいけないんでしょ」
「だからそれがアドバンテージなんだよ」

 ラグビーでは反則があってもすぐに笛は鳴らない。アドバンテージ・ルールによってレフェリーは試合の行方
を見守り、反則された側に不利益が無ければそのまま試合を続行する。つまり、反則があった場合でもすぐに罰
するのではなく、試合の流れに影響しなければそのままゲームを流してしまうのだ。厳格に反則を適用してゲー
ムの流れを止めるよりも、ゲームが楽しく行われているのならば、そのままゲームを続けるという考え方だ。い
かにもイギリスの貴族社会が生み出した慣習法のような規則(ロー)といえる。

「じゃああと一年、私にまた待てというの?この三年間、私だって辛かったんだよ」
 もう珠美の姿は完全に子供に戻っていた。野島に対しては同級生ながら、常にお姉さん
として振舞ってきた珠美だったが、とうとう本当の姿をさらけ出してしまった。
「あと一年、あと一年だけ待って欲しい。俺にとってはキャップを手にする最後のチャンスだ。その挑戦が終わ
れば、潔くラグビーを辞めて、東京に帰る」
「……ホントに?」
 子供の顔のまま、珠美が言った。大学二年で知り合って以来、初めて大人と子供の関係が逆転した。
「……ああ」
 大人になった野島に対し、珠美は再びお姉さんとしてのアドバイスをしようとした。
「でもね」
「なに?」
「もし本当に、信也くんが来年、キャップをもらったら、ずっとラグビーをしてもいいよ」
「え?」
「そうなったら滋賀でも与那国島でも、どこでも付いていくから」

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