トップオフサイドライン第9回 



「野島君、今夜ちょっと呑みに行かへんか」
「ええ、いいですよ」
 野島が近江工業ラグビー部の部長に誘われたのは、東京から戻ってきてまもなくのことだった。
入社して以来、部長に野島が個人的に誘われたことは一度もない。なにか特別な話でもあるのだろうか。

「お前も知っているとおり、ウチもせっかくトップリーグに上がったんやから、会社もラグビーに力を入れてく
れるって言うとる」
 大津にある馴染みの居酒屋で、部長が切り出した。やはりそういう話なのか……。
「それはありがたい話ですね。二度とトップウエストには落ちたくないですからね」
「そういうことや。そやからウチも外国人選手を二人も補強した」
「大丈夫です。チーム力もアップしますし、来季はトップリーグの中盤まで食い込んで、トップリーグを維持し
ましょう」
 しかし部長は、ジョッキのビールをグイッと煽ってから、苦虫を噛み潰したような顔で言った。
「そやけどなあ、トップリーグはプロ契約をした選手がゴロゴロしてるチームばかりや。その点ウチは、プロ契
約選手は外国人だけ。とても太刀打ちできん。普通で考えたら、僅か1シーズンでトップウエストに逆戻りや。
それだけは避けたいなあ」
「……でも、日本人選手もちゃんと育ってますよ」
「そのとおりや。学生時代は地味でも素質のある選手をリクルートして、設備のいい環境で育ててきたつもりや
。それが実を結んで念願のトップリーグ入りした。その象徴がお前や」
「俺が……?」
「そうや。お前は大学時代には目立たんかったけど、ウチで才能を開花させてくれた。そのおかげでトップリー
グ入りすることができた。ホンマに感謝しとる」
「よしてくださいよ、部長。俺は本来、社会人ではラグビーなんて続けられないような選手だったんですよ。そ
んな俺を拾ってくれたのに、感謝するのはこっちです」
 そのとき、野島は部長の鋭い視線を感じた。部長は待ってましたとばかりにたたみ込んだ。
「ホンマに感謝してるんか?ほんなら、ウチのチームのために働いてもらおう」
「どういう意味ですか?」
「つまり、ウチのチームとプロ契約してくれ」
 ついに、来るべきものが来たと、野島は思った。近江工業がトップリーグに上がって以来、遅かれ早かれこの
話は来ると思っていたのだ。
「し、しかし、俺なんてなんの実績もないし……」
「なにを言うとんねん。ジャパンに選ばれたやろ!」
「で、でも、キャップを得たわけじゃないし……」
「キャップを持ってなくてもプロ契約をしている選手なんてナンボでもおるわい。それに監督かて、お前にはラ
グビーに専念してもらいたいって言うとる。それだけやない。ウチのチームに日本人のプロ契約選手がいるとな
ったら、リクルートでも有利な材料となる。有望新人が集めやすくなるわけや。頼む!俺を助けると思って、プ
ロ契約をしてくれ……!」
 野島は部長の迫力に圧倒された。しかしこの話を安易に飲むことはできなかった。
 会社には会社の事情があるだろうし、部長の立場もあるだろう。
 だが今の段階で、プロ契約を了承することは、野島にとってあまりにもリスクが大きすぎた。
「……考えさせてくれませんか」
 野島はそういうのがやっとだった。

 野島はジャパンにこそ選ばれたが、キャップには手が届いていない。
 プロ契約選手になれば、練習に専念でき、念願のキャップを手にすることができるかも知れない。
 だが、やはり将来への不安がある。プロになったからといって今後の生活が保障されるわけではないし、それ
ならば社会人としてのスキルを磨いたほうが堅実な生き方といえる。
 なによりも、東京に残したままの珠美のことが気になっていた。
 たしかに珠美は、キャップを獲ったらラグビーを続けてもいいと言ってくれたが、だからといっていつまでも
珠美を待たせておくわけにはいかないし、待っていてくれるとも限らない。
 もちろん、野島は珠美と結婚する気ではいたが、それをなかなか言い出せなかった。
 今、珠美にプロポーズすれば、珠美は受け入れてくれるだろう。
 だが、今はまだラグビーに可能性を賭けたい。
 でも、珠美のことを考えたら、堅実なサラリーマン人生を送ることが最上の選択だろう。
珠美には今まで散々、迷惑をかけてきたのだ。
 前へ出るか、後ろで待つか。

 野島は今、人生のオフサイドライン上に立っていた。

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