トップオフサイドライン第11回 

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「どうしたの、急に。いつ東京に戻ってきたの?」
「昨日さ。今日、東京で所用があって、それで上京したんだ」
「所用って、出張?」
「いや、実は……」
「なによ。もったいぶってないで早く言いなさいよ」
「……実は、東京で就職を決めてきた」
「……え?」
 珠美は驚いた顔を隠そうともしなかった。まったくの寝耳に水の話だった。
「大学の先輩が紹介してくれたんだ。トントン拍子に話が進んだ」
「……それで、ラグビーは続けるの?」
「いや、その会社にラグビー部は無い」
「なんで、なんで辞めちゃうの?」
「なんでって、ラグビーは四年で辞めて東京に戻ってくるって約束だったじゃないか。その約束を守っただけだよ。それに、早く東京に戻って来いって言ってたのは珠美のほうだろ」
「……そうだけど、でも、一言ぐらい相談してくれてもいいじゃない。信也くん、いつでも独りで勝手に決めちゃうんだから」

 珠美は自分がひどく理不尽なことを言っていることに気が付いていた。しかしそれでも、自分の感情を抑えられなかった。
 野島にとってラグビーはかけがえのない物のはずである。そのラグビーを辞めるという重大決心に、自分が一言も相談されなかったことに憤りを感じていたのだ。
 野島にとっての自分は、そんなにも軽い存在だったのか……。

「なんにも言わなかったのは悪かったけど、キチンと話が決まってからお前に報告したかったんだよ。東京で就職するぞ、ああ断られた、ではカッコ悪いからな」
「……そんな理由?」
「ああ」
 珠美は少しホッとした。大人になった野島に置いていかれたような気分になっていた珠美にとって、まだ野島にも子供っぽい部分が残っていたので安心したのだ。
「でも、近江工業のほうは大丈夫?ちゃんと辞めさせてくれるの?」
「ああ、一応こちらの希望は話してあるし。明日、滋賀に帰って辞表を提出する。ラグビー部にとっては痛手かも知れないけど、俺の人生なんだしね。それに、大学からいいスクラムハーフを獲ったみたいだから、なんとかなると思う」
「仕事のほうは大丈夫なの?」
「会社からは『キミは仕事のできないダメ社員だから、プロ契約してやる』って言われたぐらいだから、大丈夫だろ」
「ホントに?信也くんにプロ契約の打診があったの?」
「……」

 野島はしまった、と思った。プロ契約の話は、珠美には内緒にしておこうと思っていたのだ。冗談のつもりだったのに、つい口が滑ってしまった。
 アジア大会でジャパンに選ばれ、プロ契約の話があったときは、かなり動揺した。ジャパンとしてキャップを得られるチャンスがあるのなら、プロ契約をしたいとさえ思った。
 しかし、珠美との約束がある。自分の夢のために、珠美をバクチのような人生に巻き込んではならない。
 そこで野島は、自分自身と一つの賭けをした。
 アジア大会後に行われるパシフィック・ネーションズでジャパンに選ばれたら、プロ契約のことを珠美に相談しよう、と。
 だが、野島はジャパンには選ばれなかった。スクラムハーフに選ばれたのは、ジャパンのレギュラーと、もう一人は初代表となる大学生だった。
 これで野島は吹っ切れた。もう自分がジャパンに選ばれることはないだろう。ラグビーからは足を洗い、東京に戻って珠美と結婚しよう。
 今までのラグビー人生を振り返ると、たしかに巡り合わせは悪かった。でも、ジャパンに選ばれ、海外遠征も経験し、桜のジャージーを着ることもできた。こんな素晴らしいラグビー人生に、なんの不満があるだろう。
 ただ一つの心残りは、キャップを獲得できずに引退することだけだった。

「どうして?どうしてプロ契約の話を受けなかったの?」
「どうしてって……、俺にそんな実力があるわけないだろ」
「私のため?私のためにプロ契約の話を断ったの?」
「……自分のためだよ」
 この野島の言葉に嘘はなかった。たしかにプロ契約の話に珠美の存在が大きく左右したのは事実だが、それだってとどのつまりは自分のために決めたことだった。
 珠美は自分のために野島の夢を奪ってしまったと思っているかも知れないが、それは全然違う。
 珠美は、野島の中にある珠美という存在の大きさに、まだ気付いていなかった。
「……なんか私って、ずっと信也くんの足を引っ張ってたんだね」
「そうじゃないって。言ったろ?自分のためだって。俺が滋賀に行って、お前と離れてラグビーをしたのは正しかった。お前が東京で頑張っていると思うと、ラグビーにも打ち込むことができた。俺がプロ契約を断ったのも、引退して東京に戻るのも、全部正しいことなんだ。あとは、東京でお前と暮らすことを、正解にすればいい」
「……うん」
 これが珠美に対する野島のプロポーズとなった。

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