トップオフサイドライン第12回 

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「やあ、野島君かね。久しぶりだな」
「はあ、ご無沙汰しております」
 東京に戻ってきて、新しい職場に入社したその日の晩に、日本ラグビー協会の強化委員長から電話がかかって
きた。

 野島は驚いた。

 自分は既にラグビー界から足を洗った身である。
 今更ラグビー協会にとってなんの用があるというのだろう。
「実は野島君、困ったことになってね。桑原君がケガしちゃったんだよ」
 桑原とは、パシフィック・ネーションズでは野島を抑えてジャパン入りしたスクラムハーフの大学生である。
当然、今年の5月に行われるワールドカップアジア予選のジャパンのメンバーに選ばれていた。
「それで、僕にどうしろとおっしゃるんですか?」
「単刀直入に言おう。ジャパンにもう一度入ってくれ」
 晴天の霹靂とはこのことである。引退した野島に、再びジャパンのオファーが来るとは。
「お言葉ですが委員長、僕は既に引退した身です。だいいち日本には、僕以外にも優れたスクラムハーフがいる
じゃありませんか。ワールドカップ本大会を考えても、絶対に出る可能性のない僕を選ぶよりも、出る可能性が
ある選手を選んだほうがいいんじゃありませんか?」
「たしかにそうなんだが、アジア予選を甘く見てはいかん。実力的にはジャパンが韓国や台湾に負けるとは思え
ないが、万が一ということがある。なにしろ一発勝負なんだ。ジャパンは絶対に負けてはいけないんだ!アジア
で勝って、ワールドカップに出場しなければいけないんだ!そのためには野島君、君の力が必要なんだ!」

 委員長の力強い説得には心が動かされたが、そんなに自分が必要なんだったら、なぜ自分ではなく大学生の桑
原をジャパンに選んだのか?という釈然としない思いは残った。
 ただ、これは協会としては仕方がないだろう。力量が同じだとすれば、将来のために若い選手を選ぶのが当た
り前だろうし、ましてやこのアジア予選の場合、野島は引退を表明した選手なのだ。

「しかし委員長、僕は今日から新しい職場に出勤しているんですよ。ここでジャパンのテストマッチに出場する
となれば、職場に迷惑をかけることになります。それに僕が中途半端な気持ちでアジア予選に取り組めば、ジャ
パンにとってもかえって迷惑なんじゃないですか?」
「まだ時間はある。じっくり考えてくれ。一週間後にまた連絡する。そのときまでに会社と相談して、返事をく
れ。いい返事を期待している」

 強化委員長はそう言って電話を切った。さすが強化委員長である。簡単には諦めはしない。
 だが、野島はこの申し出を断るつもりでいた。もちろん、新しい職場に迷惑をかけたくないという気持ちが強
い。だがそれ以上に、自分は既にラグビーとは訣別したのだ。新しい道を走り始めたのだ。
 自分にけじめをつけるためにも、この申し出を受けるわけにはいかない。

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