トップ野球少年の郷第22回
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第二章 墨谷高等学校 谷口一年生編(プレイボール 一〜七巻)−6


 〈検証〉東実との対戦(序盤〜中盤)

 東京大会三回戦、東実との対戦は明治神宮球場で行われた。
 言うまでもなく、ヤクルトスワローズ(当時はアトムズか?)の本拠地であり、大学野球のメッカでもある。当然、夏の高校野球東京大会のメイン会場であり、現在でも東東京大会のメイン会場である。西東京大会でも、大会終盤に使用される。『キャプテン』と違い、駒沢球場といい、神宮球場といい、『プレイボール』では実在の球場を使っている。

 更衣室では太田が「ここで長島さんや王さんなど、いろんな選手が着がえたりしたんだろうな」と言っているが(プ四巻四五頁)、本拠地ではない神宮球場の更衣室を長島や王が使用したかどうかは定かではない。この時代、ヤクルトにも松岡弘や若松勉などスター選手もいたのだが、太田にとってはどうでもいい選手だったのだろうか。
 いずれにしても、墨高の選手にとっては憧れの球場だっただろう。プロ野球の常打ち球場だし、東京六大学の聖地でもある。当時の六大学野球は今では考えられないほどステータスが高かった。クジ運が良ければ一回戦からでも神宮でプレーできるが、墨高の選手たちにとって神宮は初めてだったらしい。

 当時の神宮球場は現在の人工芝と違い、内野は全面土で外野は天然芝。スコアボードも電光掲示板ではなく手書き式だった。また、外野席の一部が芝生席だったのも懐かしい。
 まだ三回戦なのに神宮は満員だ(プ四巻四八頁)。筆者は西東京大会の準々決勝を観に行ったことがあるが、観客の多さに驚いた。一万五千人は入っていたであろうか。高校野球熱は関東よりも関西の方が熱いとよく言われるが、こと地方大会に関して言えばそんなことはない。地方大会が終わっても甲子園へ観に行ける関西と違って、関東の場合は地方大会が終わるともう高校野球が観られないので観客が多いのかもしれないが、それでも神宮の熱気は凄かった。大阪では決勝でも一万人も入ることはまずない。

 原辰徳がいた頃の神奈川大会では、彼の所属する東海大相模が決勝に進出した時、観客動員対策で球場まで替えてしまったことがある。当時は横浜スタジアムがなくて、決勝は保土ヶ谷球場を使用していたが、キャパシティが小さいのでプロ野球常打ち球場の川崎球場に変更されたのだ。さらに地元のテレビ神奈川(TVK)は、東海大相模の試合を初戦から放映していた。こんなこと、関西では絶対に考えられないことだ。KKがいた頃のPL学園だって決勝戦でせいぜい一万人程度、ましてやテレビ放送の特別扱いなんて全くなかった。
 さて、試合の方は先攻の東実に対し墨高先発投手の中山は作戦通り内角低めの緩い球(中山は速球が投げられないのだから仕方がない)で、一番の中井をサードライナーに打ち取った(プ四巻六一頁)。この当たりはヒット性なので作戦通りというにはためらいがあるが、打ったのが高校野球では名の通ったサードである中井(プ三巻一〇一頁)が相手じゃ仕方がないか。二番の佐藤に対しては注文通り平凡なサードゴロ(プ四巻六七頁)、三番の町田に対してはなんと三振を奪っている(プ四巻七九頁)。完璧な立ち上がりと言えよう。

 一回裏、墨高の攻撃では、中尾の速球は打てないとみて変化球狙いの指示が出るが、一番の山本、二番の太田とも神宮の雰囲気に飲まれてボールの見極めができず、連続三振。しかし三番の山口に対して谷口が「あがらない方法」を伝授(プ四巻九二頁)。見事に中尾のカーブを狙い打って、右中間へのヒットで出塁した。普通なら長打だが、山口が思わぬジャストミートでビックリしたためにスタートが遅れて、シングルヒットとなった(プ四巻一〇六頁)。
 この「あがらない方法」だが、相手投手をよく見て呼吸のタイミングを知り、その呼吸に合わせて自分も息を吸ったり吐いたりするというものだ。そうすると投手に集中し、周りのことが気にならなくなって緊張しないのだそうだ。筆者も野球をした時にこの方法を試したことがあるが、残念ながら投手の呼吸を見ることができなかった。

 谷口自身もこの呼吸方法を実践している(プ四巻一〇八頁)。田所は「ああやっているところをみると、谷口でもあがるんだな……」と言っているが、そりゃそうだ。谷口は元々ハニカミ屋だ。それをこういう方法であがり症を克服してきたのだろう。谷口の努力はなにも野球技術の向上だけではないのだ。谷口は左中間に長打コース、あわや先制点の一打を放つが、センターの町田の超美技でそれを阻まれた(プ四巻一一七頁)。

 一回表裏の攻防では明らかに墨高優勢だったが、この超美技が試合の帰趨を分けたような気がする。野球では有利と見られていたチームが先制を許すと浮き足立ち、そのままズルズルと負けてしまうことがあるがらだ。さらに、これが抜けていると一点先制してなおも二死二塁、東実は墨高の変化球狙いにまだ気付いていないから、さらに追加点を入れる可能性も高い。事実、二回の先頭打者である五番の田所は変化球を狙ってレフト前ヒットを打っている(プ四巻一五九頁)。
 二点を先制されればさしもの東実も慌てるだろう。焦って振り回し、中山の内角低めスローボールの術中にはまってしまうかもしれない。実はこのセンターの町田、サヨナラ負け寸前の最後の打球もやはり超美技で試合を終わらせている(プ七巻一二〇頁)。筆者の個人的感想で言えば、この試合での町田は文句なしのMVPである。中山に三振を喫するという大チョンボを補って余りある活躍ぶりだ。
 さて二回表、東実は振り回しては術中に陥るだけと気付いてミート打法に切り替えた。点を取られずに済むと、精神的にも余裕が出るものだ。

 バッターは四番の中尾からだ。サウスポーの中尾は珍しい左投右打(プ四巻一二三頁)。日本では珍しいが、海外ではときどき見かける。世界の盗塁王、リッキー・ヘンダーソンは左投右打だった。日本の常識なら俊足を活かすため左打ちかスイッチヒッターになるようにコーチが指導するものだが、ヘンダーソンは「右の方が打ちやすいから」と左打ちを練習しようとはしなかった。
 それはともかく、ミート打法に徹した東実打線に中山はたちまちつかまった。あっという間に五点献上、中山にこれを止める手立てはなく、守備でカバーする以外になかった。東実の伸びる打球に対して、周りの者が前進とか後退とか、声を掛け合って打球に対処する方法をとった(プ四巻一三一頁)。

 この守備で二回表の東実の攻撃をなんとか五点に食い止めたが、二回裏の攻撃では変化球狙いを東実バッテリーに見破られ、得点は難しくなった(プ四巻一六〇頁)。なにしろ谷口ですら、中尾のストレートに対してキャッチャーフライを打つのが精一杯だったのだから(プ五巻三四頁)。
 さらに墨高には深刻な問題が迫っていた。四回表、投手の中山が限界に近付いていたのだ。谷口がフォークの連投を強いられる限り、中山にはできるだけ長いイニングを投げてもらいたい。だが、失点してしまうと、その分勝利から遠ざかってしまう。それどころか、コールド負けの危険性もある。

 このとき東実の中尾が「四回コールドにするには何点いれりゃいいんだ」と聞いて、キャッチャーの大野が「九点だからあと四点必要だな」と答えている。実際の高校野球におけるコールドゲームの規定は、第一章の「〈検証〉青葉学院における一軍と二軍の差」に書いてあるので、そちらを参照されたい。
 さて、中山は四回表、無死二、三塁になった時点で力尽き、谷口がリリーフする(プ四巻一八九頁)。中山が投げたのが三回三分の〇だから、谷口は実質六イニングを投げなければならない。

 しかし、ここから谷口の奪三振ショーが始まった。谷口のフォークボールに東実打線は手も足も出ない。それこそ、かするのがやっとだった(プ五巻二六頁)。かつて村山実のフォークボールを「来るとわかっていても打てない」とONが嘆いていたが、谷口のフォークもそれほどの威力があったのだろうか。しかも村山の場合はフォークの連投ではなく、速球や他の変化球をまじえてのピッチングだったが、谷口はフォークしか投げていない。なぜ東実打線は、来るとわかっていて、球道もわかっているはずのフォークを打てないのだろう。やはり、当時の高校野球ではフォークボールを投げる投手がほとんどいなかったからだろうか。
 それはともかく、墨高打線も中尾の速球をとらえ始め、逆転への希望を持って終盤戦に入った。

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